錯乱と正気と芸術と

鼻がつまってしまって気分がふさぐ。失くしてからわかる健康の大切さ、なんてフレーズ、聞き飽きてるけどその通りですね。

ベッドに横になってスマホを左手に持ち、思いついたことをそのまま打ち込んでいる。これは坂口恭平さんの影響。彼は躁鬱病で、気分が落ち込むと死ぬことばかり考えているらしいが、死なないために鬱の時は文章をひたすら書き続けているそうだ。115000字書くらしい。すごい。私も同じことをしているつもりだが、とてもそんなには書けない。2000字くらい書くと嫌になって他のことをするか、ひと段落して満足してしまう。後者の時は少し気分が良くなるので、文章を書くことがなんらかの療養になっていることを感じる。


 坂口さんがそんなに文章を書き続けられるのは私よりも絶望が深いからなのかもしれない、となんとなく思う。私が飽きたり、満足したりするところで、彼はそうならないんだと思う。絶望が深く、なかなか上がってこれないから、その分だけたくさん吐き出している。

彼の場合はそうやって書いた何十万字もの文章を躁状態の時に推敲して、作品に昇華してしまう。鬱の時はそんなことを考えら余裕はないんだろうけど、側から見るとこれはとても羨ましい。


さっき絶望の深さについて書いたけど、人がどれくらい苦しんでいるのか、悲しんでいるのかということは当然ながら他人にはわからない。

あー今日はめっちゃ体調悪いな、大学休もう、と思っている私の苦しみが、他の人にとっては大した苦しみではなく、私が弱いだけなのでは、とかたまに思う。他人の苦しみを理解できないという前提に立って、こんなことを考えるのはナンセンスだけども。


 昨日テレビで、すごく太っている女性がダイエットするという企画番組をやっていた。色々ある中で、エクササイズを担当している若く、スタイルのいい指導員が太った参加者たちを叱咤していた。はい、そこでやめない。身体が全然動いてないよ。分かるから、あなたの気持ちは分かるから、とにかく今は動きなさい、とかなんとか。

そこまで言われたとき、ある女性が、わかるはずないです、絶対に、と突っかかった。

テレビでは、その女性にやる気がなく、問題があるかのような編集をされていたけど、女性の本当に言いたいことは推測できた。そうなんだよ、わかるはずないんだ。前に指導した参加者を見てきたからどれだけ苦しんでいるかわかる、とか、汗の量と顔色でわかる、とかそんなはずはない。

私たちは誰かの感情を、その人から立ち現れる何らかの具体的な事象から判断しているだけで、それは気持ちがわかっているわけではない。彼女は疲労ではあはあしながらも、そこは絶対違うと感覚的にわかったんだろう。


少し戻って絶望の話。フランスの哲学者のドゥルーズは文学とは錯乱である、みたいなことを言った。錯乱の中で普通では見ることのできないものを見て、それを描写したものが文学作品であるということ。

坂口さんはもろこの例に当てはまっている。錯乱の中で、ひたすら何かを描写し続け、正気の内に客観的に推敲する。ドゥルーズ的に言えばこれぞ文学なのかもね。

たしかに作家には躁鬱を始めとした精神疾患の人が多い。どくとるマンボウ航海記の北杜夫さんもたしか双極性障害だった。彼らは狂気のギリギリ手前、もしくは狂気の中で普通では見えないものを体感し、正気の内にそれを作品に昇華する。きっとすごく辛いんだろう。しかし彼らの作品は人の心を動かす力をたしかに持っている。

 ショウペンハウエルが世間で名高いが才能を感じられない詩人のことを、霊感の欠いた詩人と罵っていたことも思い出した。この霊感も同じような意味だろう。


私も昔から文章を書いたり、曲を作ったりするが、先に挙げた二人のような作品は作れていない。それは単純に鍛錬が足りないのか、私の絶望や霊感が足りないのか、わからない。

いったい私の絶望はどのくらいだろう。君には分からないし、私にも分からない。今日も分からないことが増えただけじゃないか。