左手と、本当の気持ち

ああ俺、けっこう体調悪いな、と認識する時は文字が書けなくなった時だ。文字が書けない、と言っても急に全ての文字が書けなくなるような病的な状態ではない。文章を書いている中で、ある字が急に書けなくなったりするこのが増える、という程度のことだ。


普段、文章を書きたい時、あるいは書かなければならない時、私はまず全体像を描くことをせずに、初めのセンテンスを考える。そしてそれを書く。あとは流れに任せて書いていけば、だんだんと自分の書きたいことが見えてくる。

でも時々、あれおかしいな、「い」って書こうとしたのに「え」って書いてる。あれ同じこと二度書いちゃった。今度はまた「い」を「え」と書いちゃった。あれ、まみむめもの「め」ってどうやって書くんだっけ、といった具合に、私の左手は錯乱する。

私の脳はきちんとクリアなように思える。ただ、私の左手は私が書きたいことを書いてくれない。

おかしい、こんなはずでは、と思っているうちに何度も書き直した紙はぐしゃぐしゃになっている。


なぜだろう、なぜ私は文字を書けなくなるのだろう、と考える。それでも書き続けているうちに私の左手はどんどん強張り、字は乱れていく。

たしかに、疲労がたまり、精神的にも肉体的にも参っている時は、他の動作も怪しくなる。何もないところで転けたり、出先で何をしに来たのか忘れたり、手の動作で言えば爪が上手く切れなくなったりする。

でも私には、字を書けなくなることは、そういったこととは全然違う症状に思える。


なんでだろう。また、そもそも自分にとって文章を書くとはどんな意味を持ったことなのだろう、と考えているうちに一つ思い出した。


そういえば私は幼い頃、作文が苦手だった。作文のテーマは自分が体験したことについてどう思ったか、とか、自分はどういうことが好きか、とか大体そんなことだったが、私はいつも一行も書けなかった。

先生には、君は国語ができるのに作文を全然書かないのは私に反抗しているつもりなんだろう、とか見当違いなことを言われたけど、作文用紙を前にすると、私は本当に何も書けなかった。


例えば小学生の頃、国語の文章題か何かで、デタラメならなんでも書けるというのは間違いで、デタラメを書くのはとても難しい、だから素直に作文を書くことの方がよっぽど簡単なのです、みたいな文章があった。

当時、私は十歳かそこらだったけど、それでも、冗談じゃない、と思った。

本当のことを、本当のこととして書くことがどんなに難しいことか、本当の自分のことを書くことがどんなに難しいことか、それは幼い私でもわかった。

私は作文用紙を前にして、自分について、自分の感情について書こうとした。作文を出さないと、居残りさせられて友達と遊べないから、なんとか何かしら書こうとした。

それで少しだけ書いてみて、それを読み返すと、そこにはデタラメしかなかった。私はどれだけ粘っても、本当の自分のことが書けなかった。それで、嫌になって全部消した。

周りの友達はどうしてそんなに早く書き上げられるのだろう、といつも不思議に思っていた。作文用紙一枚分にびっしりと文字を書いて、得意そうに二枚目をもらいに行くあの子が輝いて見えた。

いま思うと、彼らも自分のことなんて書いていなくて、私より早く社会化されていただけだとわかる。でも当時の私は本当に焦っていたし、寂しかった。


気づけば私は19歳になった。今では、授業のリアペやレポートもすらすら書ける。理由は、語彙が増えて書きたいことが少しだけ正確に書けるようになったということもあるけど、一番は妥協を覚えたことだろう。

私は歳をとって、自分の感情をそのまま言語化できないことを知った。一度言語のフィルターを通してしまえば、それは元の感情ではない、ということを理解した。

そして、私は妥協を覚えた。本当の自分の感情を書くことを諦めた。今でも、少しでも正確に書こうと努力はするが、ある程度努力すると、そこで諦める。

それは、私が社会化され、大人に近づいている、ということなのだろう。少しずつ、私はこの社会で生きやすいように変わっていくのだ。


でも、体調が悪くなると、私は社会化され洗練された人間から遠ざかっていく。私の頭はまた昔のように頭でっかちな命題に悩まされ、自分の不完全な文章を全て消去したくなる。


そんな状態でも今の私は、文章を書かなくちゃ、とりあえず提出しなくちゃ、とすべきことをキチンと認識できるが、私の左手は言うことを聞かない。

もしかしたら私の左手は、社会化され、妥協を覚えた私を認めたくないのかもしれない。

お前はそれでいいのか、お前はそんな文章を書いて、人の目に触れさせることを許すようなやつだったのか、って私に問い掛けているのかもしれない。


日々の課題に追われる私には鬱陶しいけど、そう考えれば言うことを聞かない左手が愛おしくなるような、ならないような。