小説 「ノンフィクション」

これは「小説」の形式で書かれた「ノンフィクション」というタイトルの文章を私が朗読する、という形式の、一種のショウです。「これ」が指す範囲は「これは『小説』の形式で書かれた『ノンフィクション』というタイトルの文章です」から始まる文章に限られず、実際にこれらの文章を発語している私や会場であるこのホール、そして観客である皆さんのことも含んでいると考えていただいて構いません。


皆さんは私に対してそれほど強い興味を抱いてらっしゃらないでしょうから、こんな個人的な話をするのは恐縮なのですが、私はとても引っ込み思案で、こうして人前で、みなさんが注意深く聴いている状態で何かをするなんてことは出来そうにありませんでしたが、担当の方から、あなたは文章を書くのが得意なのだから、このショウの完璧な脚本を書き、それをそのまま朗読すればいいじゃないか、と言っていただいて、それなら私にも出来るかもしれない、と気が軽くなり、こうして文章を書き、皆さんの前で朗読しています。そういう経緯を踏まえた上でこのショウをお楽しみください。


今、私は電車に乗っていて、随分と混んでいますから体勢を維持するのが困難なのですが、右手を斜め上に突き出すような形で、スマートフォンを使ってこの文章を書いています。すぐ前には大学生と思しき二人の女性がいます。一人は白を基調としたワンピースを着ていて、背が高く、明るく染めてパーマをかけた髪を伸ばしており、もう一人は背が低く、落ち着いた服装で黒い髪を後ろで結わいています。二人は偶然、久し振りに会ったらしく、会話を弾ませており、音楽を聴いている私の耳にもはっきりと声が届いてきています。

背の高い方は熱心ですが、背の低い方は声の感じから、どこか心ここに在らずという印象を受けます。二人は中学か高校の同級生らしく、当時の共通の知人について話していまして、背の高い方は、いやいちいち口に出すのが億劫ですね。これからはノッポ、もう一人はチビと呼びます。実際にそれほどノッポでもチビでもありませんが、あくまで便宜上の問題です。ノッポは随分人間関係に詳しく、あの子は恋人と別れただとか、あいつがテレビに出ただとか、様々な情報をチビに伝えます。さっきも述べたようにチビはいくぶん集中力を欠いていますが、そんなことには気づかないようです。

やがてノッポの話は今誰がどの大学に通っているか、ということに移りました。次々と知人の名を挙げ、あいつは明治、あの子は東海大と確定的な口調で言い続けます。挙げられる人数からしてあまり親しくない人物の情報もあるでしょうから、チビとしてはそれほど興味をひかれる話題ではないのでないか、と思うのですが、チビの返答、相槌は感心してしまうくらい見事なものです。

ノッポが、〇子は明治大、と言えば、え、まじで、〇助は横浜市立大、と言えば、あーなるほど、その他3秒に1回くらいのペースでノッポは名前を挙げ続けますが、チビは一つとして同じ相槌を打たず、もちろん側から見れば何がまじで、なのか、なるほど、なのかはわかりませんが、全く言い澱んだりすることなく、そしてそれはあたかもその相槌しかありえないかのような錯覚を与えるほど自然なのでした。それでいて言葉に感情がこもっておらず上の空で、タイミングと言葉だけが完璧にフィットしているので私はおかしくなってきました。

でも笑ってはいけません。なぜなら、こんなに混んでる電車内で唐突に笑い出したりすることは、この世界において不審なことだからです。この「この世界」という言葉が何を指すかというと、何もこの、我々の住む地球を含む全宇宙の話ではなくて、その「場」のこと、あるいはもう少し広く、我々が認識し生活しているこの限定的な世界についてなのですが、それは蛇足でしたね。


とにかく私は笑ってはいけないのです。私は唇を結んだまま鼻で息をし、なんとか笑いを押し殺そうとしています。それでもなかなか収まりそうになく、むしろ自分の滑稽さにもっとおかしくなってしまい、私は欠伸をするふりをして左手で口を覆い、窓の外を見て何か別のことを考えようとしました。窓の外では半分以上落ちかけた大きな太陽によって橙色に染まった街並みが広がっています。私は思わず見惚れました。しかし、やがて視界におかしなものを捉えました。遠くで何か黒っぽい点のようなものが揺れています。そして、それは少しずつ大きくなっているようです。私の目がおかしくなって、それがこの黒点を生んでいるのでしょうか。

不安になり、何度か目を閉じたり開けたりしていると、それはもう点とは呼べないくらい大きくなっていました。そして段々と鳥のような鋭角のシルエットが見えてきました。やはり近づいてきているようです。色もどうやら黒とは呼べない、しかし何と呼んだらいいのかわからない、どこか恐ろしく、この世のものとは思えない色になってきました。それはなんとか黒と呼べなくもない色でしたが、よその星の粒子を知識のない訪問者がなんとか知っているもので例えようとしたような、そんな心許ないものでした。

そうこうしているうちにその鳥のようなものは急速に近づいてきました。電車から10メートルほどのところで漸く気が付いたのですが、それは鳥にしてはあまりにも大きすぎました。全長がだいたい電車の扉から次の扉くらいあり、漫画に出てくるような人が乗れるほどのがっしりとした体躯の生き物です。「それ」は電車にギリギリまで近づくと向きを変えまして、電車と並走、いや飛んでいるのだから並飛でしょうか、ともかく「それ」は今では軍用機が二機並んで編隊飛行するようにぴったりと電車にくっ付いています。


私は唖然としていました。笑いなどとうの昔に消え去っています。私は夢を見ているのでしょうか。いやそれにしてはあまりにも確かな現実感があります。しかしそれにしても、と思考を巡らせていると、おい、という声が聞こえました。私には直感的にわかりました。「それ」が私に話しかけているのです。しかし直感的にわかったところでどうしようもありません。それはあまりに現実離れした光景でしたし「それ」は嘴を一つも動かさずにいるのですから。

するとまた、そんなことはどうでもいい。直感的に「わかった」ことを信じないで何を信じるんだ、と「それ」が話しかけました。私はその言葉に少し自信を取り戻し、あの、あなたはどちら様でしょうか。鳥なのでしょうか。なぜ私に話しかけてらっしゃるのでしょうか、と尋ねてみました。すると「それ」は、一度に随分と質問のあるやつだ。私が鳥であるか鳥でないか、黒であるか黒でないか、そんなことはどうでもいい。何も、頭で考えて全てのものを理解できるわけでもあるまい。お前は黒を知っているつもりだが、黒でないある色を知らず、黒を知っているかさえ怪しい、とそれだけのことだ。お前は私が自分に話しかけていることが直感的にわかっただろう。そういう理解の仕方だってちゃんとあるのだ。もっとも気が狂わないように自分の知識で私のことを捉えても構わないが。全ては便宜上のことだ、と一息に言いました。


私は少しカチンときましたが「それ」のいうことはもっともでした。それに少しでも話を先に進めないと不安でおかしくなりそうです。

私は、なるほどもっともです。よければなぜ私に話しかけたかもお答えいただきたいのですが、と言いました。

「それ」はフンと笑って、全てのことに「なぜ」なんてものがあるわけではない。もちろんお前たちは、左手に持っていたコップを落としたら地面に当たって砕けた、ということに因果性があると思っているだろうし、それは一つの正しい知識なのだが、その因果性がいつも役に立つわけではないのだ。夢の中のことを考えてみればそれはわかるだろう。それが嫌なら、こういうのはどうだ。お前は誰か親しい人間と話す時に、ほとんど無意識に相手の反応を予期しながら話しているだろう。それは大体において大きくは外れないが、時々何かの加減で全くの見当違いということがある。そういう時、お前が感じるのは、そう、恐怖だ。でも良く考えればほんとうはお前の予期に必然性なんてものはなく、恐怖を感じるなんてお門違いもいいところだ。世界とはそういうものなのだ、とまたもや一息に、しかし威厳を持って言いました。


すると、わたしは夢を見ているのか、と考えたところで、「それ」はわたしの思考を読んだかのように、これは夢であり、夢でない。ある面ではこれは現実であり、そして虚構だ。お前も私も徹底的に現実的な存在でありながら、同時に徹底的に虚構的な存在なのだ、と言いました。

まるで禅問答です。私は何を言っても反駁されるし、それが屁理屈のようでありながらなぜか笑い飛ばせない説得力を持っているのですっかり参ってしまいました。


私は目を閉じました。そして、ふと、あるおかしなことに気がつきました。周りがあまりにも静かすぎます。電車が線路の繋ぎ目で揺れるガタンゴトンという音以外の、人がたてるような音が何もしません。


私は恐る恐る目を開けて、周りを見渡しました。すると、どうでしょう。車両にいる人間が全員気味悪げに私のことをみているのです。先ほどまで楽しげに話していたノッポまでもがです。どういうことだろう、と私は訝りました。「それ」なら何かわかるかもしれない、と窓の外を見るとそこには「それ」なんて言葉が指し示すものは何もなく、たださっきよりいくぶん沈んだ夕日と、薄暗い街が見えるだけでした。


私はまた唖然としました。とうとう私の頭がおかしくなったようです。思えば私は昔から空想が好きで、いつも夢みたいなお話を考えてばかりいました。それに空想にあまりに没頭しすぎて、空想の友達の死を悲しんで泣いたり、空想上の出来事に急に怒り出したりするものですから、大人たちは気味悪がったものです。しかし私はそんな雰囲気をやがて察知できるようになり、上手に社会生活を歩めるようこうして矯正してきたのです。私は気が狂っているわけではないはずなのです。それに、さっきの「それ」は空想にしてはあまりにもリアルすぎました。あれは空想なのでしょうか。ああ、難しい。なんでただ生きているだけで人に気味悪がられたりこんな難しいことを考えたりしなければいけないのでしょう。何かが私を創り、悪戯に試練を与えているとでも考えたくなります。


アナウンスが流れ、電車は私の家がある終着駅に着きました。私は何食わぬ顔でスタスタと降りると、駅を出て、そのまま歩いて歩いて歩き続けました。気づくと私は、古びた工事現場のような場所に来ていました。古びた工事現場、なんておかしな話です。何か新しいものを建てるのが工事現場という場所の本性なのですから。


私は鉄骨に腰を下ろしました。なんだかすごく疲れています。夕日の橙色はもうほとんど見えません。

ふいに、カラスが目の前に降り立ちました。これは「それ」なんて指示語でなくても表せる正真正銘の鳥です。カラスはセンサーで人の動きに反応するおもちゃみたいに、あちこちを首だけ使って器用に見回しています。


私は疲れていましたが、まだ光が残っているうちに確かめなくてはいけないことがありました。日が落ちたら真っ黒なカラスは見えなくなってしまいます。

おい。私は意を決して言いました。カラスは一瞬私を見ました。でも、話しかけてくるようなことはありませんでした。

私は安心したようながっかりしたような気持ちになりましたが、とにかく肩の力がすっと抜けました。


やっぱりあれは空想だったのでしょうか。いや、もし空想であったとしても、あれはやはり私にとって真実なのです。たとえこの世界が現実でも夢でも虚構でも私は割り振られた役回りをこの場でうまく演じるほかないのです。


ほんの一息のうちに夜が来て、辺りは真っ暗闇になりました。カラスも、私の考えていたこともみんな、もう見分けられなくなってしまいました。


以上です。ご静聴ありがとうございました。