流転していくもの

そろそろ髪を切りたい。最後に切ってからもう2ヶ月くらい経ってしまった。

最後に切った時はたしか、バイトの勤務初日だった。まだ夏休み中で、秋学期の新しい生活に胸を膨らませていたことを覚えている。

今、私は体調を崩し2ヶ月弱でバイトを辞め、新生活は特に進展もなく、春学期の延長のような日々を過ごしている。二ヶ月経つと人の気持ちも状況も大きく変わってしまう。いま春が来て君は綺麗になった、ってあれはたぶん本当。年を取ってからのことはまだわからないが、人は、若いうちには、一つ季節が変わるくらいの期間で本当に大きく変化する。それが悲しくもあり、嬉しくもある。

気候もずいぶん変わった。日によっては夏の残り香を感じさせる9月が本当にあったとはにわかには信じられない。11月の半ばは寒さが厳しくなり、東北ではもう雪が降り始めたそうだ。この寒さではスマホのキーボードを弾く指の動きも鈍い。何度も打ち直すうちになんだか吃音者のような気分になる。


繰り返される諸行無常。般若心経がよい例だが、仏教では全てのものが流動的で、変化し、不動のものはないと考えるそうだ。そういえば西洋にも万物流転するという言葉がある。もっとも万物流転する、という言葉、つまり情報は変わっていないのかもしれないけど。


情報が流転しないって分かりづらいかもしれない。だって、伝言ゲームではどんどん内容が変わっていってしまうし、権力者やマスメディアによって情報が捻じ曲げられてしまうのを私たちは知っているから。でも、実際はそれは情報を伝達する側が流転しているだけで、情報そのものは確かにそこにあるのではないかと、と思う。

紙に書いた文字が消えてしまうことだって、紙が変化しているだけで、そこに書かれている情報そのものは、それ単体であれば変化しないと思うし。分かりづらいな。私もうまく説明できていないことを感じる。


仏教の話に戻ろう。以前、宗教学者中沢新一さんの講演会に行って、彼の仏教についての話に感銘を受けた。以下はだいたいその受け売り。


例えばあなたの目の前にあるもの、ペットボトルでもなんでもいいけど、それは確かにそこにあるみたいに感じる。でもそれは本当は存在しないとも言える。どういうことか。

例えば左手に砂を持ってその砂を地面に落とす。少しずつ落としたり、勢いよく落としたりして、その落としている瞬間をカメラで撮ってみるとする。

その写真の中では手からこぼれ落ちる砂は固有の形を持つ物体で、そこに静止しているかのようにも見える。でも実際はそうじゃない。

落ちていく砂は、コンマ何秒の間に大きく姿を変え、ひとつのところに留まっていない。

私たちの世界はどうだろうか。私たちは物質が全て原子でできていることを知っている。その原子でできている物質、例えばペットボトルは、数十年とか時間が経てばもう元の形を留めていないだろう。つまりもっとマクロな視点で見れば、それもまたこぼれ落ちる砂のように一時的に形を成しているだけのものでしかないのではないか?


私たちは人間としての時間感覚で世界を捉える。でも宇宙の歴史を一年としたら人間の歴史なんて1231日の115959秒から始まったに過ぎない、なんて言ったりする。そんなマクロな視点で見れば、私の身の回りの物質や私自身というものはなんて儚いものだろうか。

 日本人には儚さに美を見出すという感性が昔からあるけれど、それは諸行無常的な世界観が無意識に根付いているからなのなんだろうか。