小説 「熱狂、コメダ珈琲にて」


コメダ珈琲は予想外に混んでいた。そして異様に蒸し暑かった。入り口近くのソファには疲れた表情の男女が黙って座っている。店の奥を覗くと空席が目につくが、店員はみな忙しそうで客を案内しようとしない。ソファの一番手前に腰を掛ける太った中年の女は忙しなく行き来する若い女の店員と空席を落ち着きなく交互に見やり、その視線の意図に店員が気づかないので他の客にも聞こえるようにわざとらしく咳ばらいをし、またわざとらしくケバケバしいピンクのハンカチで首元の汗を拭った。女の横に座るよれた水色のシャツの中年の男は雑誌に目を落とし見ないふりをしていたが、奇妙に表情が欠落した顔は女の挙動を嫌悪していることをむしろ雄弁に語っていた。

 わざわざ車で来たので帰るわけにもいかず、田代はレジで病的に痩せている女の対応をしている店員(表にいる店員はみな若い女で特徴がなく注意しないと見分けがつかない。どこかで見たような顔だったがどこかは思い出せない)がこちらに気づくのを待っていた。それにしても暑い、と田代は思った。ただ人が多いから暑いというのではなく空気が停滞しているような感じだ、とも。実は連日の猛暑で酷使された空調のうち1つがまず壊れ、壊れた分を補おうと残りの物を酷使した結果また1つ壊れ、結局全ての空調が用をなさなくなっていた。更に悪いことに国道沿いに建てられた店の窓ははめ殺しになっており、空気を入れ替えることすらできなかった。
時刻は夕暮れ時で、店の外では日中の圧倒的な日差しが弱まり、息を吹き返した人々は誰もが快活に挨拶を交わし、カラスの鳴き声は昭和を想起させる牧歌的なものとして賛美され、街全体が幸福そのものという様子であったが、空調が壊れた蒸し風呂のような店内で水を飲むことも許されず汗ばんだ手で雑誌のページをめくりまたスマートフォンをいじり続けるしかない人々にはそれは見当はずれなまがい物の幸福であるとしか思えず、しかし本心ではその光景を羨みながら、店員と痩せた女の口論を眺めていた。

 「だからクーポンを使いたいんですけど」

 「そちらのクーポンはスマートフォンで会員登録していただいたお客様に使用していただけるものでして」

 「だから、ここに紙のクーポンがあるわけで、それで私は紙のクーポンの話をしてて、スマートフォンの話は何もしてないじゃないですか」

 「ええ、ですからこちらのクーポンの裏にありますQRコードを読み取っていただいて、スマートフォンで会員登録をしていただきますとクーポンが発行されます」

 「だからここにクーポンがあるじゃない?私はこのクーポンを提示するとコーヒーが320円になるって聞いたから車を出してこの店に来たわけじゃない?それでここにクーポンがあるじゃない?私はこのクーポンを使うためにここに来たんだからここにあるクーポンを使えるはずでしょ」

 「ええ、遠路はるばる当店に来ていただいたのは本当にありがたいのですが、私どもとしても本社から通達された規則がありまして、いえその前にスマートフォンで会員登録していただいて発行していただいたクーポンに書かれている番号をレジで読み取らないとクーポンをご使用いただくことが不可能な仕組みになっておりますので一度スマートフォンで会員登録していただかないことには話が進まないわけでして、あ、248番の三名様、一番奥のテーブル席にどうぞ…ですからですねこちらのクーポンの裏にありますQRコードを読み取っていただいて、スマートフォンで会員登録をしていただかないと…」

 田代を含め待たされている客はみな女と同様にクーポンをもらい車でここまで来ていたのでクーポンを使うためにスマートフォンで煩雑な作業をすることを想像し嫌な気持ちになり、自然と女の味方のような気分になり、田代に至っては次第に自分と女の差異があいまいになり本気で腹をたて始めており、女はそんな雰囲気を敏感に察知して自分が大勢の代弁者であるかのような一種の使命感に駆られなんとしてでも折れるわけにはいかないと決意を新たにしていたが、一組が座席に通されたことで状況は一変した。

 客たちはまず奥の席がいくつか空いていたことを思い出し、次にこの店に来ることの本来の目的がクーポンを使うことや店員を言い負かすことでなくコーヒーを飲むことであるはずだと無意識にすり替えを行い、最後に女が店員を引き留めている限り自分たちが席に案内されるのが遅れることに思い当たり、急激に怒りの矛先は女に向かった。田代はあまりにも女に自己を投影していたため客たちの急激な感情の変化を察知したのち戸惑い、女が周囲の感情の変化に気づかず店員への抗議を継続しているのを不安げな面持ちで眺めた。

 女は抗議をやめる気配がなく店員と客が全員同じように無機質な表情で静かに自分を憎んでいることに気づかず、むしろ後に引けないという思いと自分の声の大きさと圧倒的な蒸し暑さに完全に飲まれ半狂乱でカウンターを叩きつけていた。

田代は居ても立っても居られず女の肩を後ろから軽く叩き「まあまあそんなに怒らないでください。なんなら足りない分は私が払いますから」と言った。女は一瞬ぽかんとした後、顔をみるみる赤くし、何か叫んで田代を突き飛ばした。侮辱されたと思ったのだ。無理もない。田代はまだ十八だったし顔立ちはそれより更に幼く見えた。こんな小娘に諭されている自分に耐えられるほど女は冷静でなかった。

 田代は完全に不意を突かれ、受け身を取ることもなく仰向けに倒れ、しこたま頭を打った。
そして状況を理解すると自身の行為が不意に出たものであったことを完全に忘れ、最善であったはずの行為が理不尽に拒否されたような気になり、先ほどまで女に自己を投影していたことの羞恥心を押し殺すためにも過剰に女を憎み、他の客の表情を伺い、誰か加勢してはくれまいか探したが、結果として自分を見る者の視線が一様に冷たいことに驚くことになった。女に助けの手を差し伸べようとした上、失敗したことにより事態をより面倒にした田代は彼らにとって敵であり、店の回転率をあげたい店員にしてもそれは同じだった。

 田代は一瞬にして自分が店内全員の共通の敵になったことを悟った。店内は静まり返り誰もが無表情で田代を見ていた。不意に店員が気を取り直して「249番の方、右手の喫煙席にどうぞ」と言った。それで再び客の興味は自分が早く呼ばれないかということに移り、店員は慌ただしくテーブルを片づけ客を誘導しコーヒーを注いで回った。コロンビアの高地で取れた豆のうち99%を輸入しているコメダ特製のコーヒーの香ばしい香りに客は喉を鳴らし、女はというと怒りの矛先が全て小娘に向いたことに満足し会計を終えて店を出た。

 田代は立ち上がれなかった。身体中から汗が吹き出し、心臓は早鐘を打っていた。客の視線が体にべったり張り付いたような心地がして上手く動けなかった。「250番の方、251番の方」と呼ぶ店員の声は人間をただの記号として扱っているような感じで、先月までいた刑務所のことを田代に思い出させた。田代は立ち上がれなかった。250番の女になった太った女と251番の男になった水色のシャツの男が立ち上がり、男の方が道を塞いでいた田代を蹴り飛ばした。それが引き金になった。田代は地鳴りのような叫び声を上げながら立ち上がるとパーカーのポケットからアイスピックを取り出し、男の前に躍り出、左の眼球を突き刺した。男が悲鳴をあげて倒れると馬乗りになり胸に、腹に、喉に、眼球に、何度も突き刺した。何かが田代を突き動かしていた。それは巨大な暴力として場に立ち現われ、毛穴と言う毛穴から田代の中に入り込み、神経の大部分を支配していた。田代は叫び、男を刺し続け、そんな自分をどこかで冷静に眺めながら、また刑務所に入るのか、今度は何の資格を取ろうか、と考えていた。店の外では二羽のカラスが艶かしい声をあげてまぐわっており、人々は生命の神秘に涙を流し生の快楽を全身で感じていた。