ゴミできらめく世界が

毒のない作品はつまらないが、毒の強い作品に触れ過ぎると毒にやられてしまう。毒のない作品はつまらない、とは乱暴すぎる言い方だがそんなことを考えてしまう。

我々の側にあるものは綺麗に加工された商品ばかりだ。でもその綺麗さを作っているものは何か考えると、そこに歪な構造が見えてしまうこともしばしばである。

美しい体型を維持するため拒食気味のモデル。この番組を多くの方に楽しんでいただきたいので、という明文で行われる不謹慎の排除、言葉狩り。日本のテレビは震災のシーンで決して死体を写さない。

詩人の穂村弘はそんな歪さを、以下の短い詩で表現した。


岩手サファリパークのライオンと友達になるのは簡単らしい。

優しくなる注射をされているから。


別にそれらが全て悪いわけじゃない。そもそも私たちは日々生きている中でどれだけ多くの不快なものを見、受け入れなければならないのか。だから雑誌の中ではテレビの中では音楽の中では綺麗なものを求めて何が悪い。私たちはまず生きなければならないんだ。そこに高尚なようなことを言ってお前は何故水をさすんだ。

そうだ。それは間違っていない。でも私は時々この予定調和に、この健全なやりとりに嫌になってしまう。なぜだか毒のあるものに惹かれてしまう。

それはある種のロックンロールだったり、パンクだったり、救いようのない絶望家による文学だったり。それらは歪だ。多くの人はライブハウスにショベルカーで突っ込んで建物をボロボロにした挙句、自分の糞尿を観客席に撒き散らし、ダイナマイトで爆破しようとする人を異常者だと見なすだけだろう。でも中にはこんな人がいてしまう。彼らはとにかくあらゆるものにノーを叫んで、アジテートすることしかできなかったのだ。

人々はそういったアジテーター、アウトサイダーたちに自分の行き場のない胸の疼きを預ける。優れた作品、表現というものは勝手に時代や、誰かを代弁してしまうものだから。


でももちろん毒のある表現に触れ続けると受ね手にも毒が廻ってしまう。これは少し考えればわかることだ。彼らは歪なものに対してノーを叫び、それに対してさらに歪なアクションを起こした。それはとても刺激的だが、いつか腐って少しずつ我々に毒を廻していく。

彼らは予定調和を嫌う。彼らは自己表現のためなら人を傷つける。彼らはエゴにまみれ、それを表出させることを厭わない。彼らの作品に触れることで、自身のエゴを表出させることを、それを受け入れることを他者に強要することを当たり前だと思ってしまうような人はしんどい。ダメな私を見て、こんな僕を受け入れてって、SNSにはそんな人が溢れているけど。

そういった表現に惹かれながらも、温室で育ってきた私の価値観は、彼らのある側面を無意識に嫌悪している。ジョンレノンが平和を祈ったいい人であるなんて、彼のほんの一側面でしかない。彼もやはりエゴにまみれ、周囲の人を傷つけてしまうトラブルメーカーだった。ジョンのことは大好きだが、そのエピソードの一つ一つを私は嫌悪してしまう。

時々、あらゆるものから目を背けたくなる。本当に素直で、歪でなく、毒のない作品なんてないし、人間なんていない。そんな当たり前のことが私の疲れた精神にギリギリに迫ってくる。

「ゴミできらめく世界が僕たちを拒んでもずっと側で笑っていてほしい」というのはスピッツ空も飛べるはずの歌詞だけど、草野さんは後に、「ゴミできらめく世界が僕たちを包んでも」にすればよかったと悔やんだそうだ。

確かに後者の方がより示唆的だ。世界は主人公の思考を鈍らせ、引き入れようとしている。彼はどうなってしまうのか、彼自身にも分からないだろう。それでも、愛する人が側で笑っていてくれるなら、という祈りに私は共鳴する。